サバ×サバな日々

メンタル不全により仕事からの敗走。休職というサバティカル、そしてサバイバルに向けて模索する日々のよしなしごと。

252 小説「パチンコ」に見る弱き者の世界

 3日前に、小説「パチンコ」を紹介した。

 この小説は、ほぼ20世紀まるまる使って描かれているコリアン系家族のファミリーヒストリーということもできる。だけど、単なる「家族の話」に止まらない普遍性を感じるのは何故だろうか、と読後考えた。まあ、家族の話だから、誰にでも(生死はともあれ)父母がいて、その上がいて…ということもある。けれど、それ以上にこのストーリーに引き込まれるのは、「人間の弱い部分、弱い人のストーリー」が絶え間なく続く点のような気がしてきた。

(以下、ネタバレを含むので、これから読みたい、詳細を知りたくない、という人は読後に読んでほしい)

 

sabasabadays.hatenablog.jp

 

 

まず、主人公ソンジャの父は身体障がい者だった。足が不自由で…という描写がある。その時点で、バリバリ人並みに稼ぐ要素が無いことが窺い知れる。主人公の一家の生活が決して楽ではなかったことはその時点で容易に想像できる。けれど、妻や子どもに対しては充分な愛情を注いでいた。

 父が亡くなった後、ソンジャと母親は下宿屋を営み、下宿人に住居と食事を供する。掃除洗濯、買い物を10代の若いころから家業として行うのは、この時代の女性の宿命で、「女の人生は苦労の一生」という認識も若い世代から持っている。

 日本占領下での朝鮮半島で、日本人の中学生に蔑まれ、からかわれているところをコ・ハンスという市場に来ていた仲買人の男に助けられる。10代の頃から、ずっと日本人から「下に見られる」生活が続いているわけだ。

 その後、ソンジャは若い身で妊娠してしまう。当時の朝鮮では、日本以上にシングルマザーとして生きるという選択肢は無いに等しく、「父親のいない子ども」はそんなん絶対にありえない、という風情。

 そんな状況のところに、下宿に一時逗留していた平壌出身の牧師イサクが「結婚して子供の父親になる」と言い出す。何を言い出すんだ神の愛か、そういう路線か、とも思うけれど、イサクはもともと病弱で結核を患っていて、「どうせ自分みたいな人間は結婚できるかどうかも分からなかったんだし(お役に立てるなら)」という流れだった。

 訳アリの妻、そして病弱でいつ死ぬかもしれない、という夫。急ぎで結婚式を挙げて、釜山から大阪にやってくる。大阪にはイサクの兄がいて、そこに住まわせてもらうことになった。そこがまた居住環境がよろしくない。

 話の中でもちゃんと兄のセリフで出てくるが、「朝鮮人にまともな部屋を貸してくれる大家(日本人)なんていない」と。今でも続く外国人への差別が明るみに描かれる。当時のコリアンたちが暮らす地域の様子は、明らかに狭苦しく、かつ衛生状態も悪そうだが、これは「家や部屋を貸さない」日本人が生み出した結果でもある。

 ソンジャは日本で2人の男の子の母親となるが、長男は物静かで努力家、勉強が良くできる子だったので、一族総出で資金繰りして(更に他の人の手も借りて)早稲田大学に進学する。そこでのこの長男の位置づけは「朝鮮民族の代表として、しっかり勉強してくれ」という一族の期待を背負うことになる。

 一方、次男はあまり勉強は得意ではなく、納得できない相手には暴力もいとわない。結果、高校を中退することになる。しかし、近所の名士に雇いあげられ、パチンコ店の経営を任されることになり、文字通り寝食を忘れて実直に働き続ける。グレることがなかったのが幸いだが、「パチンコくらいしか働くところが無い」という選択肢の少なさも、可能性の喪失という見方からすれば弱者になる。

 物語の後半は、長男ノアの受難に尽きる。早稲田大学の学生だった時の交際相手は、「自分自身の個人的な面」ではなく、「外人-コリアン」だから付き合っていた、と思わせるような言動があり、それに気づいた彼は幻滅して、即彼女を自分の住んでいた部屋から追い出す。そして、大阪に戻り、母親に対して自分の出自について詰る。ここで、彼の心の中で大きな転回があったことは想像に難くない。東京に戻った後、早稲田大学を退学し、家族との音信を断ってしまう。

 その後、母は長男ノアを探し続けるが、当然ネットも携帯も無い時代ゆえ、全く所在は掴めない。10年以上かかって、大阪で実業家の地位を築いていたコ・ハンスが、手下の力も使ってようやくノアの居場所を突き止める。早稲田を中退した後、息子のノアは日本国内のある地方で、日本人と偽って働いていた。そこの社長にも、結婚した妻や子供にも自分の素性を明かしていない、明かせない。

 そんな状況の息子の前に十数年ぶりに母親としてソンジャが現れる。母にとっては何年経っても息子は息子だが、息子には違う思惑がある。結果、「距離を詰め過ぎた」が故に、悲惨な結末を辿ることになる。

 その後も、次男に息子ができてインタナショナルスクールに行かせたり、その後知り合ったガールフレンドとやっぱり理解し得なかったり、とか、最後までこの一家に関係するコ・ハンスが癌になって出てきたり、と、生老病死にまつわるエピソードは通奏低音的にずっと流れている。ただ、一番悶々としていたのはやっぱり長男のノアだったように読める。そもそもの出自がタブーだった、と本人が捉え、そして「日本」との軋轢に悩む。日本人になろうとして、なりきれなかった、という苦しさ、などなど。

 そして、お金があれば幸せなのか、というと、そうでもない、というのも浮かび上がる。次男のモーゼスはパチンコ経営でそれなりに成功し、息子をアメリカの大学に留学させられるまでになっている。だけど、経済的成功を幸福とは描いていない。また、重要脇役のコ・ハンスだって、実業家として金や手下を自在に動かすことができ、豪邸を所有して妻と子供もいる。だけど、「本当に欲しいもの」は手に入っていない、手に入らなかった、ように読める。

 絶望、ではないのだが、幸福ってどのような人にも遠いんだなあ、という位置関係で描かれているのだ。そして、病気だったり老いだったり、子どもとの関係だったりと、誰にでも身近に起こり得るできごとが並んでいるがゆえに、この小説は「他人事」ではなくて身に染み入るのだろう。