サバ×サバな日々

メンタル不全により仕事からの敗走。休職というサバティカル、そしてサバイバルに向けて模索する日々のよしなしごと。

339 映画「福田村事件」を観る

映画館が苦手なので、滅多に行かないのだが、どうしても見たい映画があったので行ってきた。

いわゆるシネコンでやる類の映画ではない。細々と単館上映をしているタイプの映画だ。数ヶ月前に、雑誌のレビューで見て気になっていたのだが、その後忘れていて、11月に入ってからふと思い出したというおまけつき。

史実に基づくドキュメンタリー映画で、時は100年前の大正時代、関東大震災の直後。

9月6日に、千葉県のとある村で、村にやってきた行商人の一行が村人に朝鮮人と間違われて大量虐殺されるという事件が起きー、という顛末がストーリーになっている。

関東大震災という地震があまりに大きすぎる出来事だった故に、こういった震災直後のアクシデントは大きく報道されなかった、のではなく、それにはちゃんと理由(背景)がある。

2時間を超える比較的長い作品で、正直、見終わった後もなんとも「胸糞の悪い思い」が残る映画だった。けれど、それこそが監督や脚本家の狙いだったのだろう。

100年前の大震災の時に、デマを信じて朝鮮人と間違って日本人を虐殺した事件が起こりましたー、酷いですねー、それでおしまい、ではない。

映画の中にも現れているが、「やっちまった」後に、「家族を守るため」「村を守るため」と言っていた人たちの言葉は嘘ではないだろう。

あと、集団の後ろの方にいて、暴徒化している群衆を見てはいるものの、オロオロしているだけで何もしない、止めに入らない人たち。

それは、気が弱い、意気地がないからだけではなく、止めに入ることによって「お前も朝鮮人なのか!」と逆のレッテルを貼られ、迫害される危険性があることを分かっているから、身体が動かない。

映画のほとんどのシーンは小さな村社会の生活や行商の一行が移動して歩いていたり宿で休んでいたりするシーンだから、ミクロな世界の積み重ねになっている。その端々で、差別が含まれている。朝鮮人に対する差別であったり、被差別部落の人に対する差別であったり、男女の差別だったり、門地によるものだったりする。しょっちゅう出てくるので、その度に観客は「この在り方ってどうよ」と問い糺されている気持ちにならざるを得ない。

そして、一番苦しさを感じる理由は、「100年経っても我々のメンタリティが何ら変わるところが無い」ことにきづかされるから、ではないだろうか。

天災地変でぐちゃぐちゃになっているところに、日頃から踏みつけている層が逆襲するのではないか、という不安。

そして、集団になると正常に物事が考え、判断できなくなってしまう。

この話は決して過去のものではなく、現在、そして未来にあっても起こり得る、だからこそこうして「いざとなると、どうしようもなく救いようが無い」自分たちのメンタリティを再認識する必要があるのだろう。

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