サバ×サバな日々

メンタル不全により仕事からの敗走。休職というサバティカル、そしてサバイバルに向けて模索する日々のよしなしごと。

439 「死ねない時代の哲学」を読む

 昨年末に父が亡くなり、葬儀の後の数日で、すぐにやらねばならない片付けだけを実家で済ませた。2階の奥の部屋が父親の本や書類で「物置き」状態になっていて、文字通り「足の踏み場も無くなっていた」ので、部屋の機能を果たさなくなっていた。

 夏の間に妹が大分片付けて、本の山と書類の山にしてくれていた(それよりも前は、もっとカオスだったらしい)。所有者亡き今となっては、その殆どが資源ごみ、あるいは燃えるゴミになるのだろう、という状態だ。

 当の住人である母親は昨夏に肩の手術をしたこともあり、重いものを持つのが難しいし、何よりもはや「片付けをする」という気力を喪失している。結論として、その物置きからモノを除去するのは私か妹しかいない、できない、ということになる。

 夏の偉業を引き継ぎ、葬儀が終わった後2日目に、「どう頑張っても売れそうにない資源ごみにしかならない本」と「古書リサイクルに出せそうな本」と「自分が貰って読もうかなと思う本」に分け、資源ごみはゴミステーションに搬出、古書リサイクルも無事出荷し、そして形見分けという体で自分も読みそうな本を40冊弱引き取った。そのうちの1冊がこの本である。

 前置きが長くなったけれど、著者の村上陽一郎先生。科学哲学といったらこの人だろう。いかにもアカデミアの世界の人、昭和の知識人、という方である。

 「どのように生きるか」が語られても、「どのように死ぬか」は語られてこなかった。最近は「終活」などということが言われるようになっては来ているけれど、それでも終末医療のあり方について、「自分の意思で死を迎える」というところまでは日本の社会は辿り着いていない。

 確かに、今日においては、医療の現場では「とにかく、長く生きながらせさせる」が至上命題になっているようだ。それは古来からの医療者の倫理としてはそうなのかもしれない。あとは、「何らかの医療行為」を行うことが病院の経営を支えるという極めて現実的な問題もある。

 しかし、既に「やれるだけのことはやりました(もう他に術がありません)」という病人に対し、かつ、その人が苦痛にまみれている状態で生きながらえさせることは果たして善なのか、意義あることなのか?ということについて真正面から問いかけている。

 父がこの本をいつ読んだのか、そして全て読み切ったのかどうかは定かではないが、闘病の最中において、いずれは避けられない死とどう向き合うのか自分のマインドセットの契機になったのであれば、この本の役目は果たせたのだろう。

 そして、次は譲り受けた私が、自分や周囲の人の最期について考えておく契機にするために読む。