サバ×サバな日々

メンタル不全により仕事からの敗走。休職というサバティカル、そしてサバイバルに向けて模索する日々のよしなしごと。

「死にたいと思ったことがありますか」には否と答えるけれど

鬱は悪くなると自分で死を選んでしまう可能性がある。

だから甘くみてはいけないし、誰か寄り添ってくれる人が居て欲しい。

 

でも、家族や恋人や親しい友達に、自分のメンタル状態が深刻化しているということを話せるだろうか。

私は割となんでもかんでも(どうでもいいことから重要なことまで含めて)相棒に話している方だけれど、自分が職場に行くことで精神的に追い込まれていて、もうにっちもさっちもいかない、病院に行く(ことで何か少しでも解放されたい)、と言ったのは実際に病院を受診する2日前だった。

勿論心の中では遥か前から違和感、苦痛を感じていたけれど、それを「職場から一時的にでも離れないといけないくらい苦しさが膨れ上がっている」と打ち明けることはなかなかできなかった。

 

人によって表現の仕方や感じ方が違う、そのせいかもしれないけれど、病院を受診する直前の自分の気持ちの中には、ひらたく言えば「死にたい」という要素が含まれていただろう。今考えれば。

しかし、医者に「死にたいと思ったことがありますか」と訊かれたら「はい」とは答えなかったような気がする。

上手くは言えないが、「自ら死を選び決行する」という力が自分には無かった、無いからだ。

だけど、辛うじて職場に行っていた最後の時期、周囲の同僚からの疎外感(妄想も含まれているだろうが)に苛まされ、「ここから一刻も早く消え去りたい」と思う時間は日に日に長くなっていたし、終業後に自宅に向かう途中で「このカーブでハンドルを切らなければ数分後に自分はどうなっているのかなぁ」(→おそらく事故を起こして死んでいるか運が良くても重傷・重体だろう)と考えることが数回あった。

自分の意志で死を決行できないけれど、「結果としてこの世からいなくなる」ことを望んでいることが複数回あることに気づいて、さすがにこれは正常じゃないな自分、と斜め上から見下ろしている別の自分に言われた。

それが受診のきっかけでもある。

 

翻って、通称「阿片窟」温泉にはシニア世代の方がたくさんいらっしゃる。

いつか耳にした「私、今年83になるんですけどね…『お迎え』はまだでしょうかね」というセリフがふっと感覚に染み入る。

天国に行けるのか地獄に行くのかそんなことはどっちでもいい、あの世から『お迎え』が来るならついて行きますよ、連れてってくださいな、という心境。

他の人は理解不能かもしれないが、それは自ら「死にたい」とはやはり、ちょっと違う、と思うのだ。