サバ×サバな日々

メンタル不全により仕事からの敗走。休職というサバティカル、そしてサバイバルに向けて模索する日々のよしなしごと。

サバ生活総括・その4(中期–後期:働くということとその意味と意義について)

今回、サバ生活を通して(正確にはその前からも、今も、今後も)考えたのは「働く-仕事をすること」と、自分にとってのその意義だった。

今意図している「働く」というのは、生活するための収入を得る手段、という意味で捉えてもらいたい。

私は文系の人間なので、そうなると殆どの場合が「総合職」という採用方式になる。

新卒就職の時から「それってなんやねん」という疑念を拭えず今日に至っているけど、自分の中のポリシーとしては、

・どうせ働くならば、自分の能力や適性を活かして働くほうが幸せだ

・その方が組織の生産性も上がるのでは?

という理論がコアになっている。

 

ただ、実際問題として、組織が大きくなればなるほど、個人個人の適性だとか能力だとか意向だとかを反映させるのは難しくなってくるのは事実、だろう。

あるいは、組織が小さくなればたくさんの人を雇うわけにはいかないから、「やりたくない/向いていない仕事」もやらざるを得ない、という状況も発生するだろう。

日本の場合は、特にヨーロッパのようなガッチリした職業訓練制度が無いし(強いていうならば、現場訓練を経た上で就職するのは医療系等の資格職の人くらいだろう)、少なくとも昭和の時代は「会社が一から育てます、だから何も知らなくてOK」という風土だった。

最近は新卒就職の前に「インターンシップ」とやらいう制度を設けている会社も多いけれど、欧米のそれとは大きく異なって、「会社見学+α」レベルだろう。だから、若い世代が「自分の仕事の適性や興味があまり分からない」まま就職していくことは致し方無いのだろう。

(ただ、どこかに書いてあったけれど、平成の30年間で企業が人材育成にかける費用は激減した–つまり、「人を一から育てていく余裕」が無くなっていることは明らかだ。)

 

自分も適性が分からないまま、模索しつつ就職した一人だ。

ただ、何がやりたいか–興味の対象だけははっきりしていた。

アイデンティティの育成、その貢献」。

エリクソンの研究をしていたわけでもなんでもないが、二十歳前後は自分のことを考える一番の契機だと思う。一人暮らしをしたり、恋愛して彼氏/彼女ができたり、そしてどういう仕事をするのか、と、自らについて考える機会がとても増える。

他人と比較することもあるかもしれないけれど、「他でもない自分」を大切に育ててほしい、ささやかでもそのお手伝いをしたい、というのが職業選択の背景になっている。

だから、今所属している組織(学校)を選んだことは間違いではないと思っているし、1ミリの後悔もないし、これからもその目的のために少しでも貢献できればと思っている。

 

ただ、学校というのは学生・生徒に接するだけが仕事ではない。管財・施設課のように、業者さんとの関わりが日常の部署もあれば、財務課のようにお金や数字と日々向き合わねばならない部署もある。

本人が興味関心を持って「今度はそういう部署に行って活躍したい」というならば、それは幸いだ。

けれど、本人の志や適性とあまりにかけ離れたところに行ってしまうのは、働く方にとっても経営側にとってもポジティブな要素は少ないーむしろ無いのではないだろうか。

組織の中で職務に関する希望調査や面談(異動を希望するかとか、今後のキャリアプラン、希望職種など)を問うているならば、そして、特に明確なビジョンを持っている人がいるならば、それを無駄にはして欲しくない。

 

「そんなん総合職として採用されたからには何処に配属されようが仕方がないじゃないか」という意見もあるだろう。もちろん、日本型経営システムの「総合職」というのはそういうものだ、ということは左脳では理解している。

でも、繰り返しになるけれど、真の「パフォーマンス向上」の為には、働く当事者の意識やモチベーションを高める働き方の方が結果的に成果が出る筈だ。